利根川
江戸湾に注いだ利根川は、元和元年(1621)から承応3年(1654)にかけて、銚子へと流路を変更する工事が行われた。
江戸周辺の水運網の形成を図ることや、江戸を水害から守ることなどが理由とされている。しかし、結果として、印旛沼や手賀沼周辺では利根川による洪水の被害を受けるようになった。
明治になっても洪水の被害が続き、特に明治29年(1896)は木下付近で堤防が決壊し、一気に印旛沼に洪水が達した。そこで利根川改修工事が明治33年に佐原より下流で始まり、明治40年には取手から佐原までの工事も始まった。明治43年に歴史的な利根川の大洪水があると、堤防の高さを計画より1メートル高くした。この堤防工事では木下小近くの庚申山を切り崩し、その土を馬にひかせたトロッコで堤防まで運んだ。また、堤防工事にともない、木下河岸の旅館や商店などは大正2年ころ移転し、木下駅前に新町通りを形成した。
昭和5年(1930)に、山のような大きな堤防ができた。この間、利根川の逆流を防ぐために将監川を締め切った。
さらに昭和14年から防水路をつくって利根川の水を東京湾に流す工事が始まった。この防水路は湖北村(我孫子市)を起点にし、途中で手賀沼や印旛沼の水を集め、今の谷津干潟付近にいたるものでしたが、戦争がきびしくなったため、昭和18年に中止となった。
参照:新・印西名所図会